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震災で途絶えた連続増収。危機でこそ問われる企業の力

株式会社マルトグループホールディングス

東日本大震災発生。遮断された本部と店舗

2011年3月11日。あの瞬間、森田勝次専務取締役はいわき市勿来の本社屋にいた。「震度6弱。1分以上は揺れていたんじゃないですか。もう何もかもめちゃくちゃでした」。当然、いわき市内の店舗も大きな被害を受けているはずだ。電話は通じず、ほどなく巨大な津波が街をのみ込み、道路も分断される。状況もわからず、本部から指令も出せない。気をもむ時間だけがいたずらに過ぎていった。

しかし、現場では信じられないことが起きていた。「店長自らの判断で、水やパンや缶詰といった非常時に必要な商品を店内からかき集めて、駐車場でワゴンセールをしたそうなんです。なかには店長が休みで、従業員たちが自主的に行った店もありました」。日本中が混乱に陥っていたなか、地震発生からわずか3時間足らずで営業を再開したという。そんなスーパーは、マルト以外になかっただろう。その後の状況を考えれば、地域の人々にとってどれほどありがたいことだったろうか。

マルトの常連は2日に1度は店を訪れる。もはや地域の人々にとって「マルトは台所」だ。だからこそ、お客様の期待を裏切るわけにはいかない。マルトのポリシーは「売上はお客様の信頼料」なのだ。「常日頃から意識していた私たちのポリシーが店長以下、アルバイトスタッフにまでしっかり浸透していた証しだと思います」。しかし、そんなマルトをさらなる困難が襲う。福島第一原子力発電所の事故の発生だ。

人がいない、商品が届かない。

「いわきも危ない」。そんなうわさが流れ始めたのは、福島第一原発の1号機に続いて3号機が水素爆発した3月14日ごろのことだ。いわき市民約30万人は、あっという間に半分ほどになった。市内のライバル店もすべて休業。けれど、マルトは休まなかった。森田氏は言う。「いわきのインフラを守るのはマルトなんです。残った従業員を各エリアの大型店5店に集めました。すると従業員のお子さんや親御さんたちまで応援に来てくれて。うれしかったですね」

それでも、どうにもならないことがあった。品物が届かないのだ。「配送業者が茨城県の水戸までしか運べないというのです。放射能の情報は交錯していましたし、仕方ないです。すぐに自分たちで水戸まで取りにいく準備をはじめました」。ツテをたどって動けるトラックを集め、水戸へのピストン輸送を開始。ガソリンを確保するために、市が持つ備蓄タンクを開けるよう社長自ら市長に直談判したという。「市には救援物資も届きました。ですが、どのエリアに何を配布すればいいか、市には知見がありません。でも私たちはお客様のニーズを知っています。なので、このエリアはマルト、ここは市、と指示しながら協力して乗り切っていきました」。その時、マルトは間違いなく、いわき市のライフラインを守っていた。

震災を乗り越えて、さらに大きく。

「あの時、お店を開けてくれてありがとう」。森田氏は、地域の人々からそんな声をたくさんもらったという。震災の影響で、創業以来続いていた増収はストップしたが、翌年は創業以来最高収益を上げた。それは地域の人々からの感謝の証しといえるだろう。さらに、震災時の取り組みにより、2015年には、「人を幸せにする経営」を実践する企業を表彰する「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞を受賞。対外的な評価も受けた。

マルトはいわき中央卸売市場内に事務所を置くなど仕入れにこだわり、鮮度、品質、価格で高い評価を得ている。いわき市内の食品販売シェアは約50%と圧倒的だ。「しかし」と森田氏は言う。「一番の強みは、従業員の真面目さです。創業の時から、お客様という友人をつくると言い続け、商いの心を育ててきました。従業員2,300人全員の心の根っこにそれがあるからこそ、震災を乗り越えられたのです」

震災は従業員の自主性をさらに強くしたという。そしてマルトは再び増収を続けている。現在37店舗。近い将来の50店舗も視野に入れ、その先には売り上げ2,000億円を目指していく。だが、一足飛びのような経営はしない。「あくまでもマルトの力が発揮できる商圏を見極め、じわじわとエリアを広げていくドミナント戦略です。ただこれからは、例えばもっと小型で、もっと少人数の店舗といった、時代に合わせた変化も必要でしょう」。どんなに時代が変化しようと変わらないもの。マルトに流れる「地域密着・お客様密着」の精神が、マルトをさらに大きくしていく。